小雨そぼ降る6月のある日、私はひとり青森にやって来ました。
1泊2日の出張仕事にプラス一日、ちょっとした興味と好奇心とを含んだ野暮用イベントのために。
指定された店に5分前に到着すると、すでにニックネーム“冷やし山菜うどん”さんが座っているのが見えました。
一度も会ったことがないのにどうして分かったのかというと、その店には彼女以外誰も客がいなかったからです。
しかし、そんな状況証拠を抜きにしても、確実に“冷やし山菜うどん”さん本人だと特定できる物品がありました。
それは、テーブルの上に置かれた『マリー・アントワネット』の映画パンフでした。
キルステン・ダンストが指に付いた生クリームにむしゃぶりついて、焼却炉の中で石油製品が溶けるような笑顔をこちらに向けています。
それを見た瞬間、間違いないと思いました。
店のガラス戸を開けると、カウベルがカランコロンカラーンとなり、私の来店を知らせました。
途端に顔を上げた“冷やし山菜うどん”さんは、声を出さずに「ウ・ザ・ム・さん?」と聞きました。
私は無言でうなずき、対面側に腰を下ろしました。
黒のパンツスーツに身を包み、緩めのタテ巻きできめた彼女はうやうやしく立ち上がり、「はじめまして“冷やし山菜うどん”です」とお辞儀をされました。
私も「はじめまして。白田ウザムと申します。どうぞよろしくお願い致します」と、新人営業マンのような挨拶を交わしました。
“冷やし山菜うどん”さんはほほほと笑い、「こんな改まって“冷やし山菜うどん”だなんて!」と手を叩きました。
―――ネットの書き込みや日記を拝見しました。ユーモアあふれる方なんですね。
「そうですか?ほとんど思いつくまま書いてるだけなんですけどね。キレイなものとか美味しいものが好きなのは普通じゃありません?」
―――ですね。でも『前々世はオーストリアの王侯貴族』とか『ほぼ2日に1度、マリー・アントワネットが降りてくる』って言い切るところは普通じゃない気がしますけど(笑)
「ほほほほほ!みなさんそう仰いますわ。でも事実は事実なので、隠すこともないと思っております」
―――事実だからしょうがないと(笑)で、女社長という。なんかいろいろすごいですね。
「仕事は、たまたま閃きがあったものを始めたら軌道に乗ったんですよ。5年ほど前に欧州に旅行した時のことなんですけど、シェーンブルン宮殿でふと思ったんです。ペットに関するビジネスをできないか?って」
―――ペット事業ですか。それはどういったものなんですか?
「ワンちゃんって毎日の散歩が大変じゃないですか。それが気になってペットを飼えない方もたくさんいらっしゃるんじゃないかしら、と思いまして。気軽に利用できるペットのお散歩屋さんデリバリーを始めたんです。ペットってとても癒されるでしょう?だから多くの人にペットと過ごす生活を送っていただきたくて」
―――気軽に利用できるってことは低価格なものなんですか?
「ええ。最初は1時間15000円(税別)でやっていたんですけど、全く反応がありませんでした。どうやら高く感じられたようで、半年後に500円(税込み)に値下げしたんです。でも今度は、その金額だと交通費などを差し引くと利益にならないことが分かりました。なのでまた半年くらい後に値上げさせていただいたんです。それからはずっと1時間850円(税込み)で続けています」
―――バイトの時給くらいですね。
「そうです。でもそこがミソなんだと思いました。お客さまの気持ちとして、そのくらいの人件費であれば人一人雇う場合の相場だとご納得いただけるんでしょうね」
―――経費などを差し引いたら利益が残らないんじゃないですか?
「いいえ。ちゃんと毎月利益は上がっておりますよ。経費と言っても、社長の私と、精神的取締役のマリーだけで運営しておりますから、さほど心配はいらないのです」
―――精神的…取締役ですか…。
「でも、関東や東海地方に出張でお伺いすると、赤字になってしまうことがございますわね」
―――出張もあるんですか?
「ありません」
―――ないんですか。なら、その心配は杞憂ですね。
「口コミでどんどんお客さまが増えて参りましたので、いずれそういうこともあろうかと考えています。インターネットやSNSに関わっているのは、そういう目的もあるんです。後で是非当社のホームページをご覧になってください」
―――わかりました。URLを教えていただけますか?
「www.わんわんおさんぽどっとこむ、です」
―――口コミはすごいですよね。なにか特別なサービスがあるんですか?
「はい。ペットのメンタルケアに重点を置いております」
―――と、言いますと?
「私はワンちゃんたちの考えていることが分かるので、それを飼い主の方に伝えるようにしております。そうすると、ペットも飼い主も、お互いに満足のいくコミュニケーションが取れるようになるのです」
―――今、わりとヤバいことをサラッと言いましたが、それは犬としゃべれるということでいいですか?
「はい。シャチともしゃべれます」
―――すごいですね。
「それは、私の体質がたまたまそうだった、というだけのことですので」
―――たまたま、にも限度があると思うんですが。
「それは私が………」
―――どうしました?
「ううっ…、ちょっと……」
―――大丈夫ですか!?顔が真っ青ですよ!
「……大…丈夫…で…す」
震える手でコップに注がれた水を一口飲むと、そのまま“冷やし山菜うどん”さんは気を失ってしまいました。
話の展開が見えないながらも、なんとなく調子を合わせながら話していた途中でのことでした。
あっという間に全身から血の気が引いて行き、ロウ人形のように白くなってしまった彼女の頬。
私は、なんの状況もつかめぬまま茫然とそれを見つめ続けるしかありませんでした。
そして数分後、パッと目を開いた彼女は驚くべき変化を遂げていたのです。
<つづく>
構成/白田ウザム
●関連記事
→「青森県在住・安藤まり子(仮名)の場合<1>」
|